出雲国府跡
いずもこくふあと
概要
S46-5-118出雲国府跡.txt: 出雲国庁が意宇平野に所在したことは『出雲風土記』に明らかであるが、その所在地については最近の研究成果によって大草町字宮ノ後の付近が有力視されるにいたった。そこで昭和43年から3年間にいたってその付近を発掘調査した結果、奈良時代だけでも前後六時期に分けられる掘立柱建物の遺構であることが判明した。しかも発見された溝地割と出雲の総社六所神社脇の遺構を検討すると近江国衙(史跡)の地割とも一致し、出雲国庁の正庁後殿の位置もほぼ推定が可能となった。なお、大原評□」「進上兵士財□□□」などと読みうる木簡も出土し、国庁と同所にあったと『風土記』に記す意宇郡衙や意宇軍団の建物、ならびに上記遺構群の北方茶臼山の麓にひろがる条里制の遺構など、今後調査研究すべき範囲は広く、とりあえず遺構群を中心とする周辺地域を指定することになったものである。
平成26年10月 追加指定及び一部解除
出雲(いずも)国府(こくふ)跡(あと)は,意宇平野中央やや西寄りに位置する古代出雲国の中心であった官衙(かんが)遺跡である。天平5年(733)に編纂された『出雲(いずも)国(のくに)風土記(ふどき)』に記載があり,これまでの島根県教育委員会等の発掘調査により政庁後殿もしくは正殿,後方官衙,国司館,付属工房の存在が明らかになっている。遺構は大きく六期に分類され,7世紀後葉から13世紀までのものが見つかっている。
中心部と想定される六所神社は,出雲国の総社(そうじゃ)と考えられ,神社本殿の東からは政庁後殿もしくは正殿と考えられる四面廂付(しめんひさしつき)大型建物が見つかっている。その北に位置する宮(みや)ノ後(のうしろ)地区からは大型の整然と並んだ掘立柱建物と,これらを区画する溝が検出されており,硯・木簡(もっかん)・墨書土器などが出土したことから文書行政が行われたことがわかり,曹司群であると考えられる。さらに北に位置する大舎原(おおじゃら)地区では東西に並んだ四面廂付大型建物や区画溝,門などのほか,「館」・「介」などと書かれた墨書土器などが出土しており,国司の館であると考えられる。大舎原地区の東の日(ひ)岸田(がんで)地区では,漆の付いた土器や鉄・銅製品関係遺物が見つかっており,国府の工房があったと考えられる。また,周辺地区の現在水田となっている所には,風土記にある「正西道(まにしのみち)」「枉(きたに)北道(まがれるみち)」を基準にしたとみられる方一町の水田地割が残る。このように,律令国家における地方支配を考える上で貴重な遺跡であることから,昭和46年,史跡に指定された。
今回,政庁後殿もしくは正殿とされた四面廂付大型建物の南に広がる隣接地の政庁部分と想定される場所のうち,条件の整った部分を追加指定するとともに、地番の錯誤が確認されたためその地番を解除し,保護の万全を期するものである。