革嶋家文書(二千四百五十九通)
かわしまけもんじょ
概要
「革嶋家文書」は京都市西京区川島の革嶋家に伝来した文書群で、その内容は鎌倉時代から大正時代までのおよそ八〇〇年間に及ぶ家の歴史を伝えている。
革嶋家は佐竹義隆の弟義季を祖とする家柄で、二代義安から革嶋氏を名乗り、以後代々革嶋南庄の下司職を相伝した。南北朝時代の革嶋幸政は足利尊氏(一三〇五~五八)に従って軍功を挙げ、建武三年(一三三六)に同庄の地頭職に補任されるとともに幕府御家人に取り立てられた。以後、伊勢氏の被官となり、西岡衆と呼ばれる一員として室町幕府を支える軍事的基盤となって活動した。戦国時代、近郷の田地を買得し、西岡一帯の有力な国人領主にまで成長した。また、桂川用水の管理や地域的一揆の指導者としての活動にも著しいものがあった。織田信長(一五三四~八二)が入洛すると、一九代秀存はこれに従い、細川藤孝(一五三四~一六一〇)等の下で軍功を挙げたが、豊臣秀吉(一五三七~九八)の時代には、忠宣が明智光秀(一五二八~八二)との関係を疑われて牢浪となり、江戸時代を迎えた。
江戸時代には、革嶋の旧地に居住し続け、牢人として苗字帯刀を許される身分を保ち、寛文八年(一六六八)から延宝五年(一六七七)までの一時期は備後福山藩水野家に仕官し、あるいは公家の鷹司家に奉公したこともあった。江戸時代中期の著名な儒者である大坂懐徳堂塾主中井竹山(一七三〇~一八〇四)は革嶋家の姻戚にあたり、竹山は革嶋家家産の再建に尽力している。幕末には、当主有尚が尊王攘夷運動に加わり、肥後、薩摩、長州の諸藩士と交流をもち、維新の戦争では有栖川宮熾仁親王(一八三五~九五)の下で旗本隊軍監を務めた。維新後、有尚は病気のため政府への出仕ができず、士族にも列せられず不遇の時代を送ったが、大正三年(一九一四)に長年の運動が実って士族編入が認められた。
「革嶋家文書」は、このような革嶋家の歴史の中で蓄積された文書群である。その中に、一七世紀後半、二二代幸元によって家伝系図の編纂が行われた際に革嶋家の重書として整理・成巻されたものがある。「家宝遺墨」と名づけられた四巻には、室町時代後期から安土桃山時代に至る文書が収められている。上巻には織田信長関係文書、下巻には西岡衆の惣旗頭である細川藤孝の折紙、請文、書状、乾巻には信長の家臣である明智光秀、滝川一益(一五二五~八六)、柴田勝家(?~一五八三)らの折紙、書状、坤巻には松尾月読社との相論に関する室町幕府奉行人連署奉書が収められている。この「家宝遺墨」は、幕藩体制において家格・身分を決定するに至ったときに、中世末・近世初期の文書が重要視されたことによって整理され、その保存が図られた具体的な事例といえる。江戸時代における家の由緒を示すものとして、また細川家との関係を意識して家宝として成巻されたものと考えられる。その他、幸元の編纂したものに革嶋氏の出自に係わる「源氏佐竹革嶋之系図」と「源家革嶋之伝記」があり、佐竹氏以来の中世武士の伝統を継承しているという自負がみえる。
中世文書は、正嘉二年(一二五八)の法花寺供田関係文書をはじめとして、革嶋南庄下司職関係文書および足利尊氏に従い同庄地頭職を与えられた御判御教書案や南北朝時代の軍勢催促状、着到状など紛失した文書の重書案などが伝えられている。その他、室町・戦国時代に革嶋親宣・泰宣等が買得した土地の証文類とその証拠書類が大半を占める。例えば、暦応年間(一三三八~四二)の上久世季継ら連署契状は、今井溝から最も多量の引水をしていた東寺領上久世庄、仁和寺領寺戸庄、西園寺家領河島庄の三地域を代表する三人の国人が用水の共同利用を契約したものである。桂川用水に関する初見史料であり、用水の開発が鎌倉時代に遡ることや水利をもとに一味同心して固い結束が図られ、小規模な国人の地域的連合の姿が看取される。
近世文書を大別すると、(一)土地・年貢関係、(二)書状・記録類、(三)身分関係、(四)村方騒動関係、(五)絵図類の五つに分類される。
特に、幕末期における長州藩の品川弥二郎(一八四三~一九〇〇)や薩摩藩の高崎正風(一八三六~一九一二)等との交友を示す書簡類には、「新撰組」「奇兵隊」など注目される内容を含んでいる。また、中世の地侍の館をうかがわせる元禄十五年(一七〇二)の革嶋家屋敷絵図なども含まれている。下男・下女の部屋、牛舎、灰小屋、こなし場などがあり、かなりの規模の経営がうかがわれる。
近代文書には、有尚の陵掌や大原野神社宮司としての活動を示す文書類や、明治・大正期の士族編入運動に関する文書が残されている。…全文は添付ファイルを参照