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勝尾寺旧境内■(ボウ)示八天石蔵および町石

かつおじきゅうけいだいぼうじはってんせきぞうおよびちょうせき

概要

勝尾寺旧境内■(ボウ)示八天石蔵および町石

かつおじきゅうけいだいぼうじはってんせきぞうおよびちょうせき

社寺跡又は旧境内 / 近畿 / 大阪府

大阪府

箕面市粟生

指定年月日:19660128
管理団体名:箕面市(昭46・11・4)

史跡名勝天然記念物

勝尾寺は、奈良時代開成皇子の開基にかかると伝えられ、清和天皇の御参詣もあり、つとに著名な寺である。
寛元元年(一二四三年)の縁起等によれば、皇子は、境内の内八町の地を加持してその四隅に四天王形象を安置し、また境内の四方四隅の八箇所に同じく天主像を安置して境内を護ったと伝えられるが、寛喜二年(一二三〇年)の文書に初めて八天石蔵の名が見える。その崇敬は、程度の差こそあれ、永く続いてきた。最近その全般的な発掘調査が行なわれ、その全部がほとんど「石を疂んで壇となす」といわれた旧態のまま遺存していることが明らかにされた。
すなわち勝尾寺の本堂を中心として、降三世明王軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王ならびに四天王のそれぞれ石蔵が交互に配され、いずれも同形であって、自然石をもって方形三段の壇を築いており、その下段は各辺四メートル、中断は三メートル、上段は二メートル、總高約一メートルである。そしてこの内部に陶製の壷を埋め、中にそれぞれ高さ二六センチメートル乃至三〇センチメートルの青銅製の四大明王または四天王を一躯ずつ、本堂に面して安置していた。
これら石蔵築造の経緯についてはなお詳かでない点も存するが、或いは寛喜年間かと推定され、境内■示の古い例をきかない現在、極めて貴重であり、その荘重なことも特記に値する。
また旧参道は、山門から、途中南方の軍荼利明王石蔵の傍を過ぎて茨木市方面に降っているが、これに沿うて町石の存することも貴重である。町石は、現在山門前の下乘と、一町から七町までと、計八基あるが、宝治元年(一二四七年)の造立にかかり、花崗岩製の一石五■■■■■く、これに梵字、町数、造立者の名を陰刻している。現在知られている町石としては最古のものである。
これら石蔵と町石は、両者相まって往時における寺院の形態をよく示すものであり、貴重な遺跡と認められる。
S39-06-016勝尾寺旧境内〓(*1)示八天石蔵および町石.txt: [[八天石蔵]はってんいしくら]とは、[[勝尾寺]かつおじ]の当初の境内の四方、四隅の8ヵ所に設けられた[[〓(*1)示]ぼうじ](境界を示す標識)の名で、寛喜2年(1230年)の文書に見えている。この種の遺構としてきわめて珍しい例であるが、これは単に寺の遺構としてだけでなく、ひろく、領地の保護がいかに行われたかという、社会事象の資料として貴重である。尾根や、山間の渓流沿いなどに設けられているが、勝尾寺には最初開基[[開成]かいじょう]皇子が境界標を造られたという伝えがあり、事実古い標識もあったが、この由緒を継いで、寛喜初年の隣接地住民の境内侵犯事件を機として、現存の標識を造ったと考えられる。
 その形は、上中下3段に築き上げられた方形の石積みの壇で、下段は一辺4メートル、中段は3メートル、上段は2メートルと逓減し、総高約1メートルある。この壇の内部には青銅の[[降三世明王]ごうさんぜみょうおう](東)、[[軍荼利]ぐんだり]明王(南)、大威徳明王(西)、金剛夜叉明王(北)の四大明王と持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)、多聞天(北)の四天王の像の各一躰が壺に納めて埋納されており、これらを総称して、八天石蔵というのである。驚くほどの丁重さで、東寺講堂の四大明王、四天王のように方位に従って四大明王四天王の石蔵が交互に配置されている。像は26ないし30センチメートル、鎌倉時代の特徴が看取される。境界標の遺例としては珍しく、構造は荘重であり、仏像もまた優秀であって、近来にない興味ある史跡である。
 [[町石]ちょういし](寺の参道に沿って立てられた丁数を示す標識、当時の用語では町率塔婆)は茨木市に至る旧参道に沿い、山門前のものには下乗と刻し、次いで一町から始まり、現在七町まで遺存している。形は一石五輪で地輪が長く、これに梵字(金剛界五仏)、下乗、町数、造立者名を刻している。宝治元年の造立に係り、現存町石中で最古のものである。

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