島原藩主深溝松平家墓所
しまばらはんしゅふこうずまつだいらけぼしょ
概要
島原藩主深溝松平家墓所は,戦国時代に分立した松平氏の一家で,江戸時代に十八松平と称された深溝松平家の墓所である。菩提寺である瑞雲山本光寺(ずいうんざんほんこうじ)と東西の廟所からなる。
深溝松平家は初代忠定(たださだ)が深溝の地を本拠としたことに始まり,4代家忠(いえただ)の時,家康の関東移封に従って深溝を離れるが,5代忠利(ただとし)は,慶長6年(1601)に1万石の大名として三河に戻り,5代忠利から17代忠愛(ただちか)までの13名と明治以降の18代・19代が死没地の何処かにかかわらず,深溝の本光寺に埋葬された。深溝への遺骸の埋葬は,5代忠利の遺命と伝承されている。6代忠房(ただふさ)は寛文9年(1669),肥前島原に転封となった。西廟所の中央に初代から4代までの墓地が置かれ,その東側に5代忠利の肖影堂(しょうえいどう)が建つ。忠房の世子好房の逝去にあたり,吉田神道を崇敬する忠房夫妻によって,神殿型の墓標が西廟所に建設され,以後,歴代当主の墓標形式となった。
6代忠房の正室永春院の逝去を契機に,新たに東廟所が造営される。そこには,西廟所に埋葬された11代忠恕(ただひろ)を除く19代までの当主が埋葬されている。7代忠雄(ただお)墓所の発掘調査で下部構造も明らかとされ,棺内及び棺と石室の間から太刀やガラス杯・銀製香道具等の豊富な副葬品が出土した。
島原藩主深溝松平家墓所は,神殿型の墓標を採用し,墳墓の地に継続して埋葬するという特徴を有しており,大名家の葬送儀礼のあり方を考えるうえで極めて重要である。