旧念来寺鐘楼
きゅうねんらいじしょうろう
概要
旧念来寺鐘楼
きゅうねんらいじしょうろう
長野県
江戸中期
鐘楼の下層は土間で、自然石の上に角柱を立て、腰貫2段を通し、梁を縦横に架ける。上層の柱は、この梁の上に立つ。袴腰の板は二次材であるが、下地の構造材は当初のものとみられる。階段は、上層の中央に上がるように作られているが、縁板や根太の痕跡から、当初は柱筋に沿った位置に上るようになっていたことがわかる。
上層の縁は、下層の柱に台輪を置き、拳鼻付き三手先組物の腰組で支える。腰組の中備には異形の絵様蟇股をいれる。縁は切目縁で、擬宝珠高欄をつけ、高欄の正面中央には蕨手をつける。
上層の柱は円柱で、台輪(隅の八双金物は供出され、痕跡が残る)をおき、組物は絵様拳鼻をつけた三手先とする。中備は、平の中間は枠のみの本蟇股、同脇の間は菊の花葉を浮き彫りした蓑束、妻側は牡丹等の彫刻の入った本蟇股である。支輪は板支輪で蛇腹文様を彩色している。軒は二軒の板軒で、雲文の大柄な彫刻を一面に彫っている。一軒目は、力垂木の下端も一体に彫刻している。二軒目は板軒を桔木で吊る。妻飾りは虹梁大瓶束で笈形をつける。妻には弁柄の彩色が残る。虹梁の渦・若葉には17世紀後期の特徴がよく示されている。懸魚は、かぶら懸魚で、鰭をつける。屋根は厚いこけらの軒付の上を本瓦葺に似た銅板に葺いているが、創建後まもなく檜皮葺から銅板葺にあらためたものである。
上層の内部は、拳鼻付二手先で格天井を支え、中央に朱漆塗の方位盤を取り付け、その中心に時鐘の釣座がある。
旧念来寺鐘楼は、桁行三間、梁行二間、袴腰付の鐘楼で、屋根は入母屋造、本瓦形銅板葺とする。平面規模は上層が桁行4.9m、梁行3.9mで、鐘楼としては規模の大きなものである。
1棟
松本市中央4丁目1375番6
長野県指定
指定年月日:20120322
宗教法人 妙勝寺
有形文化財(建造物)
念来寺は、木食派の始祖弾誓の三世法孫唱岳長音を開基として元和5年(1619年)に開山され、光明山念来寺と称した。開山にあたり松本藩主戸田氏から土地の寄進を受け、1800坪の寺域を備えた大規模な寺院であった。木食行とともに作仏行を行う天台宗木食派の寺で天台律宗に属し、檀家をもたなかったが、本尊阿弥陀如来(長音作仏、像高7尺)は「清水の大仏(おおぼとけ)」と呼ばれ、庶民の寺として信仰を集めた。その後、六世空幻明阿が中興して寺観を改めた。文化5年(1808)~天保6年(1835)以前の伽藍を描いた城下町絵図(松本城管理事務所蔵)があり、本堂、庫裡、庫裡と回廊で結ばれた袴腰付きの鐘楼などが描かれている。
現在の鐘楼は、この明阿によって宝永2年に建てられたものである。『信府統記』(享保9年、松本藩藩主・水野忠恒の家臣が編纂)にも、既に「時の鐘」と記されて親しまれた建築であった。
明治5年(1872)廃仏毀釈により、廃寺となり伽藍は破壊されたが、時の鐘を告げていた鐘楼のみが、その後も役割を果たすため破壊の難を免れた。時鐘は元禄12年(1699)に鋳造(鐘銘)された外径1.2mの大鐘で、松本本町の鋳物師田中伝左衛門吉繁の作であったが、第二次世界大戦中の供出で失われた。また、高欄にあった青銅の擬宝珠なども供出された。