宇佐神宮境内
うさじんぐうけいだい
概要
S45-5-119[[宇佐神宮境内]うさじんぐうけいだい].txt: 宇佐神宮本来の祭神は、八幡神と比売神の二座であり、通説によれば、古い地方豪族たる宇佐[[公]きみ]の比売神信仰に、新来の帰化人秦氏の配下にあった[[辛嶋勝]からしまのすぐり]や[[大神朝臣]おおみわのあそん]の奉ずる八幡信仰が加わり、両者の習合によって成立した。したがって、三柱の比売神の降臨説話で知られる[[御許山]おもとさん]は、神殿をもたず、山頂に三種の巨石体をもつ[[磐座]いわくら]であるが、それに対する八幡神は、[[鷹居]たかい]社・小山田社などの中間の社地を経て、神亀・天平年間に、現在の菱形池を中心とする亀山の地に勧請され、社殿が造営された。前者は宇佐氏、後者は大神氏により奉ぜられたものといわれる。一方、宇佐氏も、仏教信仰をとり入れ、虚空蔵寺、法鏡寺等の中間の寺院を経て、天平年間、法蓮が八幡神宮寺である弥勒寺を建立した。またその後、比売神宮寺をも建立するものである。
このようにして、天平年間、宇佐宮と弥勒寺は、現在の地に完成し、その後急速に勢力をのばし、国家の重大事件に登場し、手向山(奈良)、石清水(京都)、鶴ヶ岡(鎌倉)にも勧請され、中世には、八幡信仰は全国的なものとなった。
宇佐宮の社殿は、応永古図や江戸時代絵図の配置と一致し、弥勒寺も、塔・金堂・東門等の礎石が現存する。大尾山の社殿は神護景雲年間に営まれたところである。御許山には、延喜年間にいたり、正覚寺が建立されたが、権現信仰の発生とともに、国東半島の修験の聖地六郷満山の奥の院として発展し、金山6坊が成立した。現在、坊中跡の石垣・社僧の墓地等が多く残されている。宇佐宮南大門につづく[[宮迫]みやさこ]の地は、弥勒寺社僧の出た26坊の跡地で、栄興寺(真乗坊)、永勝院、北坊等の敷地や石垣、坊中の地割りの基本となった三道等が現存している。
以上のように、宇佐宮・弥勒寺・大尾山・御許山・宮迫の遺跡が一体として現存していることは、八幡信仰の発展を考える上できわめて貴重である。