比企城館跡群
菅谷館跡
松山城跡
杉山城跡
小倉城跡
ひきじょうかんあとぐん すがややかたあと まつやまじょうあと すぎやまじょうあと おぐらじょうあと
概要
昭和48年5月26日史跡指定した菅谷遺跡については、当時指定管理方針が確定していなかったため東側の堀跡の一部が未指定に終わったが、昭和51年12月、埼玉県が史跡用地として管理することが決定したので、追加指定する。
鎌倉時代の有力御家人として著名な畠山重忠の館跡である。重忠は、父重能の代から大里郡畠山荘の荘司であり、はじめ同荘内に館を置いていたが、やがて鎌倉街道の要衝にあたる菅谷に移って館を構えたもので、元久2年(1205)重忠が死去したあとは、畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられた。
館跡は都幾川と槻川の合流点北側にあり、中央やや南寄りに、長方形の本丸を置き、その北側に二の丸・三の丸などを配置し、各郭を土塁・堀で防備している。郭の配置や土塁の構築法には近世的な平城の特徴がうかがえるが、本丸は単郭式の館の面影をとどめており、鎌倉時代の菅谷館の中心部分と思われる。中世館跡の遺構として数少ない遺跡であり、保存度もきわめてよい。