有馬記拾落
ありまきしゅうらく
概要
寛永14~15年(1637~38)にかけておきた天草・島原の乱の鎮圧に際し、佐賀藩勢が幕府の軍令に違反して一番乗りを果したとして、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂は乱後に半年間の閉門(謹慎)処分を受けたが、当時の江戸市中では「有馬の城は強いようで弱い。鍋島様にとんと落とされた」という辻歌が流行った。この乱で鍋島勝茂が着用した具足(青漆塗萌黄糸威二枚胴具足)をのちに譲り受けた末男の鍋島直長は、胴裏に金泥でこの辻歌を記しており、名誉の讃歌と捉えていたようである。
本書は江戸時代を代表する武士道論である「葉隠」の口述者・山本常朝が著したとされる天草・島原の乱の逸話集で、この辻歌に関するエピソードも収められている。これによれば、半年間の謹慎が解けた鍋島勝茂は、祝儀として熊本藩の先代藩主で利休七哲のひとり細川忠興(三斎)より茶の湯の接待を受けた。その席で細川忠興は、今回の閉門がうらやましいと語り始める。なぜなら、桜田屋敷(鍋島藩邸)の前を通りかかった江戸市中の誰もが閉門を不思議に思い、やがて乱での一番乗りというその理由(=武功)を知るだろうから、それは名誉を世間に周知させる事になるという。茶の湯のあとは酒宴となり、細川忠興が最近の流行歌でも唄うよう座頭に命じたところ、乱を題材にしたこの歌を披露した。しかしこれを聞いた細川忠興は、「強いようで弱い」という歌詞が鍋島家の名誉を損なうため、「強いことは強いが」に替えて唄い直させたという。