野津古墳群
のづこふんぐん
概要
野津古墳群は熊本県のほぼ中央部、九州山地西麓部の標高90から110mの台地上に立地する、古墳時代後期の4基の前方後円墳からなる古墳群である。これまで、平成5年度に熊本大学法文学部考古学研究室、平成6から8年度に竜北町教育委員会が内容を確認する発掘調査を行ってきた。
古墳は、北から姫ノ城古墳、物見櫓古墳、中ノ城古墳、端ノ城古墳の順に並ぶが、出土遺物等から見て、概ね物見櫓古墳、姫ノ城古墳、中ノ城古墳、端ノ城古墳の順に築造されたと考えられる。
物見櫓古墳は、本古墳群の中では最も小さく、墳丘長62mで周濠も伴わない。墳丘には葺石を持つが、埴輪は確認されていない。埋葬施設は盗掘を受けていたが、石の抜き取り跡から複室構造の横穴式石室で全長11m前後になるものと推定されている。副葬品は多数の陶質土器や須恵器、鉄鏃、鉄矛、挂甲、胡籙、馬具、ヤリガンナ、ガラス玉、垂飾付耳飾などで、6世紀初頭頃の築造と見られる。
姫ノ城古墳は、墳丘長86m、周濠を含めた総長は115mで、墳丘には葺石、埴輪を有する。主体部は未確認であるが、レーダー探査の結果、横穴式石室である可能性が考えられている。この古墳を特徴づけるものは石製表飾品である。古くから靫2点、衣笠の笠部6点及びその支柱部3点、石見型盾5点等の出土が知られていたが、今回の調査でも石見型盾2点が発見され、これは福岡県岩戸山古墳に次ぐ点数である。時期は6世紀初頭から前半頃と見られる。
中ノ城古墳は本古墳群の中では最も規模が大きく、墳丘長102m、周濠を含めた総長は117mに達する。墳丘は3段築成で、葺石、盾持人物埴輪等とともに石製表飾品として衣笠の笠部1点が出土した。埋葬施設は石屋形を伴う横穴式石室で、盗掘を受けていたが甲冑、鉄刀、馬具、ガラス玉等が確認された。時期は6世紀前半頃と見られる。
端ノ城古墳は、墳丘長68m、周濠を含めた総長は80mで、墳丘には葺石、埴輪を有する。埋葬施設は大きく攪乱を受けていたが、周濠内部から凝灰岩製の石材片が出土したため、横口式家形石棺又は石棺式石室が設置されていたものと考えられる。副葬品は須恵器、鉄鏃、挂甲、胡籙、馬具、ガラス勾玉、碧玉製管玉などで、時期は6世紀前半から中頃と見られる。
この古墳群が所在する氷川流域では6世紀初頭の物見櫓古墳に始まり、その後短期間のうちに3基の古墳が築かれた。中九州地方において、60から100mの古墳が密集して存在するのはこの古墳群以外にはなく、被葬者を火の君一族に比定する説がある。また、石製表飾品が出土した姫ノ城古墳・中ノ城古墳は、筑紫国造磐井の墳墓とされる岩戸山古墳に特徴的な石製表飾品分布の南限に当たり、両者は少なからぬ関係にあったものと考えられる。また、『肥後国風土記』には、磐井の乱の後、火の君は自己勢力の温存と伸長を図ったと記されており、興味深い。
このように、野津古墳群は中九州地方を代表する古墳群であり、当該地域における古墳時代後期の政治状況を知る上で極めて重要であり、史跡に指定し保護を図ろうとするものである。