後瀬山城跡
のちせやまじょうあと
概要
小浜は中世以降日本海海運の拠点として、また中国大陸との交易の港として栄えたが、その小浜湊の背後に聳える後瀬山(標高146メートル)に、大永2年(1522)若狭守護武田元光が築いた城が後瀬山城である。武田氏は元光以降信豊、義統、元明と続くが、この間一族内紛が続くなど、その基盤は〓(*1)弱で、朝倉氏の攻撃を受ける等のこともあった。元明の時天正10年(1582)本能時の変後に滅亡する。
こののち後瀬山城は丹羽長秀が城主となり、この年10月には柴田勝家に対する備えとして城構えが強化されている。以後天正15年(1587)には浅野長吉(のち長政)、文禄2年(1592)には木下勝俊、と豊臣秀吉の近親者が城主となったのち、慶長5年(1600)に入城した高極高次が新たに小浜城を築城したことにともない、廃城となった。
後瀬山は万葉集の歌枕ともなった名山であるが、城は山頂に御殿と通称される主郭を設け、それより北北東と北西の2方向に延びる尾根上に、連続してくるわを配置する構造となっている。この2つの尾根にはさまれる谷の下方の平地には、居館が設けられている。「若狭国伝記」(文政6年〈1823〉竹村軍治筆写)中、永禄11年(1568)8月13日の朝倉軍による後瀬山攻撃の記述中に「麓ノ城」と見えるものが、これに該当しよう。また山の南方、西方、北西方にはいくつかのたてぼりを設けており、特に西方のそれは20本近くのたてぼりが連続する、いわゆる「畝形たてぼり」の典型である。
通称御殿には野面積の石垣が残るが、その南西、一段下がった部分にもくるわがあり、昭和62年から63年度に小浜市教育委員会によって発掘調査が行われた(小浜市教育委員会『後瀬山城』)。その結果、このくるわでは東西15・31メートル(50尺五寸、柱間数8間)、南北7・75メートル(25尺六寸、柱間数4間)の礎石建物が敷石玄関の遺構をともなって検出された。また土塁に連続して築山遺構も検出されている。くるわ造成面は2面あり、土塁、玄関についても2時期あることが確認されている。建物の調査は1面でとどめているが、第1期の礎石の大部分を利用しつつも、立て替えによって建物全体の構造も変わり、玄関の構造も変わったと考えられている。
遺物は青磁、白磁、染付、瀬戸・美濃等の陶磁器、朝鮮製陶器(船徳利の底)、香炉、火桶、坩堝、コビキ痕跡をもつ丸瓦、また平瓦等があるが、瓦出土量は少なく、棟の化粧程度の使用と考えられている。
なお後瀬山山麓、鬼門の方角にあたる位置には、大永元年(1521)武田元光が創建した発心寺(曹洞宗)があり、天文20年(1551)に死去した元光の墓塔(宝篋印塔)があるほか、元光の彫像、画像も残されている。
後瀬山城は日本海岸ではもっとも京に近い小浜湊を掌握する位置にあり、若狭守護である武田氏によって築かれた。また豊臣政権下にあっても重臣の位置にある、枢要な大名が配されている。城もこうした城主にふさわしい壮大なものであり、遺構の残りもきわめて良好である。よってこの城跡を史跡に指定し、その保存を図るものである。