赤土山古墳
あかつちやまこふん
概要
奈良盆地の南東部にあたる天理市南部から桜井市にかけては、西殿塚古墳(現手白香皇女衾田陵)を中心とした大和古墳群、行燈山古墳(現崇神天皇陵)・渋谷向山古墳(現景行天皇陵)に代表される柳本古墳群、さらに南方の箸墓古墳(現倭迹々日百襲姫命陵)を最大規模とする纏向古墳群など、出現期から前期に想定される大型前方後円墳・前方後方墳が多数分布し、初期古代国家成立を考える上で、極めて重要な地域として著名である。
赤土山古墳は大和古墳群の北、奈良盆地の東山麓から西方に向かって延びる丘陵が、最も大きく張り出した屋根筋上にあり、前方後円墳5基と40〜50基の円墳・方墳からなる古墳時代前期から中期を中心とした東大寺山古墳群の中の主要古墳の1つである。眼下に流れる高瀬川の谷筋との比高差は26メートルで、古墳からは奈良盆地のほぼ全域を遠望する視界が開け、遠く吉野の山岳地帯まで見渡すことができる。
この古墳は、昭和62年から平成2年まで、天理市教育委員会によって発掘調査が実施され、その結果、後方部後端に造出しを有する、きわめて特異な前方後方墳であることが明らかとなった。古墳外表には全面にわたって葺石が施され、段築構造で、墳丘現存長103・5メートルである。後方部は長軸方向の長さ約44メートル、幅約33メートル、高さ約10メートルの規模で、後方部を正方形に近い形にする一般的は墳丘と異なり、やや長方形に築造し、さらに四隅を隅丸形に整形するなど、典型的な前方後円墳と比べると特異な形状を示している。また、後方部後端に造られた現存長約10メートル、高さ約3・5メートルの二段築成の造出し部は、旧地形からしてさらに6〜7メートル長かったと推定され、本来の墳丘規模も110メートル前後に復元される。前方部は二段に築成されているが、明瞭に墳形が観察できるのは上段のみで、下段は不整形をなす。長軸長約49・5メートル、先端部最大幅約69メートル、くびれ部最大幅約35メートルである。また、前方部先端と隣接する円墳との間に幅約7メートル、深さ1メートルの浅い堀割があり、基底部より積上げられた葺石が認められた。
墳丘の周辺には、旧地形を造成して高さの異なるいくつものテラスが形成され、後方部後端と前方部何面の墳丘裾で検出された葺石で区画した特殊遺構、前方部北の墳丘状遺構、後方部南東隅の墓道がつくられ、さらに、古墳築造後に埋葬施設が設置されるなど、さまざま施設が置かれた複雑な造作は山裾までおよび、古墳の景観を具体的に把握することができる。
出土遺物には土師器と埴輪がある。前者は墳丘下の腐食土層から検出された古式土師器で、後者は墳丘を取り巻く円筒埴輪を主に、家形埴輪・蓋形埴輪・鶏形埴輪・短甲形埴輪・草〓(*1)形埴輪などの形象埴輪である。形象埴輪は墓道が墳丘に取り付く左右に集中し、種類ごとに分けられて樹立された形跡がある。
以上のように、赤土山古墳は出土遺物などから古墳時代前期頃の築造と考えられ、外部施設を含む細部の形態を非常によくとどめ、築造当初の様相を具体的にとらえることのできる古墳として貴重である。さらに、櫟本山古墳・和爾下神社古墳・東大寺山古墳と前方後円墳を主流とする古墳群の中にあって、本古墳のような古墳が含まれることは、南方の大和古墳群における下池山古墳や柳本古墳群における櫛山古墳などにも共通して見られる現象であり、出現期から前期の古墳を中心とする奈良盆地頭部の古墳群が、画一的に形成されたのではなかったことを示すものであり、このことは、初期古代国家の成立を考える上で、極めて重要な要素であると考えられる。
よって、史跡に指定し、その保存を図ろうとするものである。