銘苅墓跡群
めかるはかあとぐん
概要
銘苅墓跡群は、沖縄県沖縄本島南部、首里城跡の西方約3kmにある、沖縄グスク時代から琉球王府時代、明治時代に続く大規模な墓跡群である。周辺は琉球石灰岩地帯で、墓跡群は緩やかな起伏のなかを北西方向へ流れる小河川沿いの谷に営まれている。西方約1.5kmには東シナ海を臨む。
この一帯214haは戦後、米軍住宅施設として使用されていたが、昭和62年に全域が解放され土地区画整理事業が行われることとなった。事業地内には亀甲形の外観を持つ亀甲墓のうち最大規模の伊是名殿内の墓をはじめ、多くの古墓が存在することが知られていた。伊是名殿内の墓と都市公園予定地内の一部の古墓については保存されることとなったが、他のものは那覇市教育委員会により平成2年から15年まで断続的に発掘調査された。調査が進むにつれ、多様な形式の墓が330基以上に及び、その成立が14・15世紀に遡ることなどが明らかとなった。このうち成立が最も古く被葬者像などが明らかで、沖縄地方の墓制の成立と展開を考える上で最も重要な銘苅川北岸の地区、29基について、計画変更し現状保存を図った。
伊是名殿内の墓は銘苅川と大湾川の合流点付近にある、南北約30m、東西約22mの規模をもつ大規模な亀甲墓で、墓室は西に開口する。伊是名殿内は琉球王府において伊是名島・伊平屋島の総地頭をつとめた上級士族である。伊是名家の創設は19世紀前半であるが、墓の型式は18世紀に遡る可能性が指摘されている。亀甲墓は17世紀後半に中国華南地方から伝わったとされ、琉球王府時代には士族に用いられることが一般的であったが、近代以降広く普及した沖縄地方独特の型式である。本墓はこうした亀甲墓のなかで傑出した規模を持つものである。
伊是名殿内の墓の東約100mに位置する保存地区には、崖面の岩陰前面に石積みをして墓室とした囲込岩陰墓2基、琉球石灰岩の下層に堆積した粘土層に横穴を掘り込んで墓室とした掘込墓26基、亀甲墓1基がある。いずれも基本的には墓室にいったん納めて白骨化させたのちに、これを清めて改めて葬る洗骨葬である。囲込岩陰墓からは36体の風葬人骨が出土し、それがその谷上に営まれたグスク時代の集落、ヒヤジョー毛遺跡と同時期であり両者が関係すると考えられる。墓の多くには蔵骨器(厨子甕)が納められており、それに被葬者の氏名、役職、死亡・洗骨年月日などを墨書で記した銘書をもつものが他の地区よりもかなり多いことが注目される。この銘書により墓の被葬者は主に琉球王府首里の士族層であったことが確認できる。
このように銘苅墓跡群は岩陰における洗骨葬がグスク時代に成立し、近世以降、掘込墓などが展開したことを示すとともに、中国から伝わった最大規模の亀甲墓があり、文字資料により具体的な被葬者像が明らかにできるなど、墓跡としては極めて貴重な事例である。ここにみる墓制や葬送儀礼は沖縄地方の歴史と文化の独自性を象徴するものでもある。よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。