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埴科古墳群
 森将軍塚古墳
 有明山将軍塚古墳
 倉科将軍塚古墳
 土口将軍塚古墳

はにしなこふんぐん
 もりしょうぐんづかこふん
 ありあけやましょうぐんづかこふん
 くらしなしょうぐんづかこふん
 どぐちしょうぐんづかこふん

概要

埴科古墳群
 森将軍塚古墳
 有明山将軍塚古墳
 倉科将軍塚古墳
 土口将軍塚古墳

はにしなこふんぐん
 もりしょうぐんづかこふん
 ありあけやましょうぐんづかこふん
 くらしなしょうぐんづかこふん
 どぐちしょうぐんづかこふん

古墳 / 旧石器 / 中部 / 長野県

長野県

原始

長野市、千曲市

指定年月日:19710316
管理団体名:千曲市(昭55・2・29),長野市(平19・6・7)

史跡名勝天然記念物

 丘陵の頂部に営まれた前方後円墳で、墳丘は丘尾を切断したうえ、自然の尾根に若干の盛土をして作られている。規模は、全長100メートル、前方部の幅30メートル、高さ5メートル、後円部は径約50メートル余、高さ10メートルである。この後円部は円というよりは楕円形もしくは隅丸長方形をなしており、むしろ前方後方墳に近い形をしている。昭和41、2年に行なった発掘調査では、墓壙の構造、墳丘の築成法などに特異な事実が判明した。
 特に後円部のほぼ中央にある割石小口積の竪穴式石室は、二重に築かれた石垣状の墓壙の中に設けられている。石室は全長7.7メートル、幅平均2メートル、深さ2.1メートルを数え、その四隅が丸く作られている。盗掘の際の残存品として三角縁神獣鏡片、硬玉製勾玉等が出ており、副葬品や石室の構造等からみて古墳時代前期の築造であり、東国における典型的な畿内型の古墳の一つである。
 森将軍塚古墳は、善光寺平南域を流れる千曲川の右岸に派生した、標高490mの山頂に所在する古墳時代前期の前方後円墳である。昭和41年から東京教育大学が発掘調査を行い、盗掘を受けた竪穴式石室及び多量の埴輪を検出した。この調査を受け、昭和46年、東日本における古墳時代前期の前方後円墳の様相を知る上で重要であることから史跡に指定された。
更埴市教育委員会は、昭和56年から整備を目的として、古墳の内容を確認するための発掘調査を実施した。その結果、この古墳は、地形の制約から後円部は正円にはならないが墳長100mの2段築成の前方後円墳であること、後円部の竪穴式石室から三角縁神獣鏡、各種鉄製品及び玉類を検出し、埴輪の特徴等を踏まえると4世紀中頃の築造であることなどが明らかとなった。現在では墳丘の復元整備も完了し、多くの見学者が来訪するとともに復元された古墳は教科書にも掲載されるなど、積極的な活用が図られている。
この森将軍塚古墳が所在する千曲川右岸には、「将軍塚」と呼称される3基の前方後円墳がある。有明山将軍塚古墳は墳長37mの前方後円墳で、後円部には竪穴式石室が設けられていた。盗掘は受けていたが、小型青銅鏡・鉄鏃・各種小玉類が出土している。副葬品と墳丘上の土器から、4世紀代の築造と考えられる。
倉科将軍塚古墳は、墳長83mの二段築成の前方後円墳である。主体部は後円部に竪穴式石室、前方部に箱式石棺が設けられていた。ともに盗掘は受けていたものの竪穴式石槨からは三角板革綴短甲片などが出土しており、5世紀前半の築造とみなされる。
土口将軍塚古墳は墳長67.7mの前方後円墳で、後円部に2つの竪穴式石室が並んで設けられた。盗掘を受けていたが、三角板革綴短甲片・鉄鏃・ガラス小玉等が出土し、墳丘上で確認された土器等から5世紀前半の築造と考えられる。
千曲川右岸地域では従来5世紀後半まで前方後円墳の築造が行われていたと考えられてきた。今回の調査によってこれらは森将軍塚古墳の築造を嚆矢とし、有明山将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳、土口将軍塚古墳が継続し、しかも5世紀前半で築造が終了したことが明らかとなった。これらは、当該地域における首長系譜を追うことができるという点で重要であるとともに、5世紀中頃に当地域に何らかの変革があったことが示唆され、当地域の政治状況を知る上でも貴重な知見が得られたことになる。今回、既指定の森将軍塚古墳に3基の前方後円墳を追加指定し、「埴科古墳群 森将軍塚古墳 倉科将軍塚古墳 有明山将軍塚古墳 土口将軍塚古墳」に名称変更し、保護の万全を図ろうとするものである。

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