五ケ瀬の荒踊
ごかせのあらおどり
概要
五ヶ瀬の荒踊は、宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町大字三ヶ所坂本区に城址を残す坂本城の城主坂本伊賀守正行が天正年間に創始し、慶長年間に孫の坂本山城守入道休覚が守護神二上大明神(現在の三ヶ所神社)に奉納する例を定めたことにより始まったものと伝えられている。また、一説には、近江国(現滋賀県)坂本から伝来した踊りともいわれている。
この踊りは、現在、大字三ヶ所坂本区の約二五〇戸の人々によって伝承されており、伝承の組織は堅固である。すなわち、踊りの役は、どの組の者が担当するという明確な分担があり、さらに踊り太夫などいくつかの役は世襲となっている。行列や旗の行進順序には昔ながらの定めが現在も厳守されている。
この荒踊の一行は、六十余名の武者姿の者を中心とした役の者が隊列を組み踊り場に練り込み、中央に据えられた太鼓を取り囲んで十余曲を踊るもので、九月二十九日三ヶ所神社の秋季大祭で奉納された後、翌三十日に、中登神社と坂本城址にて踊られ、次第は全てほぼ同じである。
二十九日の朝、坂本区長から踊り太夫へ踊り奉納の要請があり、踊り役一同が公民館に集合し装束などを整え、羽子矢旗【はごやばた】(一本の太い竹の棒の上部に何本かの小幟旗【このぼりばた】をとりつけ、白・赤・青各色の幣を切りさげたもの)や旗幟を押したてて、隊列を組み神社へ向かう(隊列は、先払いを先頭に、踊り太夫、鷹匠、槍、長刀、弓、鉄砲、それに新発意【しんぼち】、猿その他の各役が続き、その後方に太鼓・小太鼓・鐘・笛・法螺貝の楽器の各役が続く)。踊り場に到着すると、まず、「入端【いりは】」という入場の曲を踊る。その後、コの字型に張られた幔幕(中に太鼓の打ち手や歌い手がいる)を取り囲んで踊り手一同輪になって踊る。これを「中踊【なかおどり】」と称し、これには、「御門のてい踊」「御所殿踊」など踊り訪れた館の門や館を讃める踊り、その後に「乙婿【おとむて】踊」「孫九郎踊」「上方踊」「与弥市【よねいち】踊」「大山【たいさん】踊」「長者踊」「権之助踊」「誓願寺念仏踊【せいがんじねんぶつおどり】」「七ッ子踊」「新吾踊」など物語調の歌や念仏歌などにあわせての踊りが次々と踊られる。最後の「新吾踊」は退場の踊り「出端【では】」を兼ねている。各踊りとも新発意の「次は〇〇踊云々」の口上の後始められる。
踊り方は、武器を持つもの、扇を持つもの(開き扇とたたみ扇とがある)、素手で拍子を打つものなど各曲ごとに手足の振りも少しずつ変化がある。「入端」「出端」の踊りの途中で鉄砲が撃たれると、踊り方が勇壮活発なものに急変して、さらに人目をひく。踊りは各々三〇分ないし四〇分を要し、全体で、六時間程の長時間の踊りである。
この荒踊は、規模や構成が大がかりであるばかりでなく、他に類例のない芸態を有し、地域的特色の顕著な風流の踊りである。