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峭壁摩天・断層夾波

概要

峭壁摩天・断層夾波

日本画

高島北海  (1850-1931)

タカシマ、ホッカイ

大正4年/1915

彩色・絹本・軸・双幅

各130.0×49.0

「峭壁摩天」右下に落款、印章; 「断層夾波」左下に落款、印章

9回文展 竹之台陳列館 1915

5
峭壁摩天(しょうへきまてん) 断層夾波(きょうは)
Landscape with Precipices : Mountain Cliffs Reaching the Sky, Stream between the Cliffs
1915年
絹本彩色・軸(双幅) 各130.0×49.0cm
北海は初め陸軍軍人の道をめざしたが、やがて明治政府の殖産興業政策のもとで工部省でフランス人技師のコワニエから地質学を学んだ。次いで農商務省に出仕して森林や植物帯の調査に従事している。その軌跡はまさしく幕末から明治への転換期の知識人の一典型を見せているようだ。彼の父良台は藩医を務め、本草学に造詣(ぞうけい)が深かった。江戸後期に発達した本草学は実地の調査を重んじ、同時にそれを記録する意味で写実的な絵画の発達にも寄与した。北海はその伝統を受け継ぐと同時に、フランスの実証精神に裏付けられた自然科学を学ぶことになったのである。画家として特定の師につかなかった彼は、こうして身につけた自然観察を基礎に全く独自の様式を創りあげた。それは、一見北宗の山水画のようでありながら、地質学の経験をもとに山々の重なりや奥行きを正確に把握して描いたものであった。ヨーロッパに留学しながらも表面的な西洋画の模倣を排除した彼の山水画は、朦朧体(もうろうたい)を標榜するいわゆる新派を快く思わない旧派に迎えられ、文展では旧派側の審査委員を務めた。この作品も第9回文展の出品作であるが、日本画の出品作が回を重ねるにつれ大作ぞろいになってしまったことに対して「小品画」の奨励が行われた時の作品である。実際に各地を走破して描いていた頃の力強さはないが、とりわけ《峭壁摩天》の断崖の高さを表す白雲には、形骸化した漢画の山水画にはない確かな距離感がみられる。

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