制作の経緯については、『達帳』、『肥后藩雪舟流画家伝』の矢野良勝伝及び男成大和守守壽の日記から、熊本藩第8代藩主細川斉茲が矢部地方に狩りで訪れた際、千滝と五老ヶ滝に感銘を受け、寛政3年(1791)2月に御抱絵師の矢野良勝に命じて絵を描かせたことが契機である。その出来映えに満足した斉茲は、同年9月、今度は良勝とその同門の衛藤良行に肥後国中の滝や美しい風景を描くよう命じ、良勝と良行及びその弟子たちは、寛政5年(1793)2月の完成まで2年半を費やし、本図巻を完成させた。本図巻は、斉茲の個人的な娯楽だけのために制作されたのではなく、「紀州様、水戸様、そのほか御同席様方へも御覧に入れる御約束」(『達帳』)のため、斉茲が参勤で江戸へ旅立つ日までに完成させることが厳命されていた。そのため、本来6年はかかるところを「終始詰通」(同)の作業で間に合わせている。江戸詰めの大名たちの間で絵画等の鑑賞を愉しむ一種のサロンがあり、そこで披露されるべく制作されたのであって、その後の真景図の流行に影響を与えた可能性がある。